昭和45年11月15日  特別奉修委員



 婦人会の婦という字は、女という字にも読みますね。婦人会の婦という字は、女という字も読むでしょう。婦系図ていうような、あれがあるです。あれは女と言う。けれども女という字は、婦人の婦には読みませんよね。信心を頂いておっても、やっぱり信心を頂いていないでも、やはりその、変わりはないのですけれども、ほんなら信心を頂いていない人は、やはり信者ではありませんよね。
 だから、ここんところをですね、信心させて頂くものは、ひとつの信心を頂いておるからと言うて、あの、それがひとつの、なんと申しますか。私は信心を頂いておる、信者であると言うことと、女であると言うことをね、いつも心に掛けとかなきゃいけないと思う。私はもう信者じゃからち言うて、そげん女を忘れてしまってはもうね、お終い。信心のある者と無いものの違いと言ったようなものを、そういうところに、今日はね、そんなことを頂くんですよね。
 婦人の婦という字は女と読むけれど、女という字は、婦には読まないち。そういう御理解、なんか大変意味深長な感じが致しますね。よく人にもしなけりゃならん。ただいま、あのご祈念させて頂く前に、波田野さんがお届けをされるのです。昨日も、もうこの頃、何をするも、かにをするも、それが、苦しいことであっても、面倒くさいことであっても、そのことが幹三郎ちゃんの病気平癒につながるんだと思うたら、面倒くさいと思わない、苦しいと思わないというわけなんですね。
 昨日も、ふっと思い出して、どこかに、お金を借りておられたところに、普通なら、いつでもよかと言うところでしょうけれども、いつもそこんところを心に掛けておられますもんですから、これも幹三郎ちゃんの病気平癒につながることだと思うて、普通で言うなら面倒くさいところを、面倒くさいと思わずに、信心でやらせて頂いたとこう言う。そしたら向こうではちょっと喜びごとがあってから、誰にでも差し上げられませんけれどと言うて、紅白のお饅頭を頂いて帰った。
 白といや、目出たいということ。ほんとに幹三郎ちゃんの、それにつながると思うて有り難いと思うた、というお届けがあった。今また合楽食堂の中村さんも、もうとにかく、幹三郎ちゃんのことを思うたら、もういやとか困るとか、そういうことはもう言わんことに決めて、どういう、たとえば無理を言うお客さんの場合でも、はいはいと言うことにさせて頂いとりますが、昨日もまぁ、そういう一日であったと。
 その中にある人が見えられて、私の、お母さんか、お母さんが乳癌でなくなって、姉さんが肉腫で、もう半年しかもてないと言う命だと言ったような話を聞かせて頂いてと言うようなお届けをされる。是はどっちかち言うと、なにか悪いことを連想するようなね。けれども私は思わせてもらうのにね、波田野さんのそういう紅白のお饅頭を頂いたからと言うて、心が明るくなる事もなからなければ。
 中村さんのその話を聞いて心が暗くなる事もない。ほらまあとにかく信心ちゃ有り難いもんだとこう思うですね。ですから私は折角信心をさせて頂くならね、そこまでの所を頂きたいと思うですね。ちっと良い事と聞くと心が晴れ晴れしゅうなったとか。ちょっと暗い事を聞いたら、もう心がめいってしまうと言うのじゃなくて、それではない。今朝の御理解も、やはりあの、女は、女が菜園に出てというて。
 女と言うことを一番口に頂きましたよね。今朝の御理解。それをあの二段階に分けての、いわば一心に頂き抜く、貫き抜き通すと言うね、岩をも通すほどしの、貫く、それが、地を拝むという言うことだと言うふうに頂いて、またそれを右であろうが左であろうが、そうして願ったことが、右になろうが左になろうが、神様頂きますというその心こそが、信心の姿勢だと言うね。
 そういう御理解いただいたでしょう。ですから私はね、そういう信心が日頃でけできておるから、私今日こう言う今こういうおかげが頂けておるのじゃないかと思うんですよ。もうあただにそうなったから、特別願うと言った様なもんは、さらさらない訳ですよ。もう常日頃が所謂大地を拝む心、信心とは一心を貫くという、所謂その恵介君じゃないばってん、ねばいちの信心がでけてる。
 ですから例えばそうして願って出てくる答えが、右であろうが左であろうが、赤であろうが白であろうがです。それを頂くという姿勢が、どん腹がでけておるから、私はそこに一気一優をする事のないおかげが頂けるんだと思うんですよね。そう言う様な事も今の女という字、婦人の婦という字は、女に読むけれども女という字は、婦人の婦には読まないと。それに私は観念を持っておると思うんですよね。よくその辺の所をひとつ考えて見られるといいですね。
   どうぞ。